(これは「えいっ」的なやつである。)
マーク・ローランズの「哲学者が走る」という本では、走ることで得られる道具的価値と内在的価値について語られています。
もはやわたしたちは、本質的には、価値を有用性の機能以外の点では考えられなくなってしまったのだと行ったら、言い過ぎかもしれない。それでも、これはむずかしくなった。たしかに、走るという活動は自分自身にとっても、他の人にとっても、ふつうはこの有用性の点で正統化される。人は健康のために、太らないように、リラックスするために、活力を保つために走るのだというわけだ。このような答えに暗に含まれているのは、もし走ることが正当な時間の過ごし方だとすれば、それは「何かのために良く」なければならない、何らかの形で有用でなければならないという仮定である。走ることは、それがわたしたちにもたらすものとは無関係に価値をもつのだとか、道具的な点では理解できないような価値をもつかもしれない—こういった考え方を、わたしたちは理解しにくくなっている。わたしはこれを自分の経験から言っている。この点がわかるまでには、何年も、いや実際には何十年もの混乱した年月がかかった。p11より
内在的価値/道具的価値についてはINTRINSIC VALUEなども参照。
つまり、道具的価値とは、何かの別の目的のために役に立つ、価値があることを指していて、内在的価値は、それそのものの価値を指す。実際のところ、内在的価値を言葉で表現するのは難しい。語弊を恐れずに言えば、それを行うことに伴う「喜び」という感じでしょうか(息抜きにゲームをするとかそういうのとは違う)。
では、ブログの内在的価値とはなんだろうと。いつの日か、ブログは、PVを稼いで副収入を得るのに良いとか、継続的な情報発信によってブランドの価値をほにゃららほにゃららとか、道具的価値のみで語られるようになった気がします。
もともとブログは手軽に発信するためのツールであり、そこには何らかの「解放」があったように思う。「ホームページ」という固定的なサイト構成を破壊して、膨大なhtmlを管理することの苦痛からの解放。そこには発信することの「喜び」が伴っていたように思います。言いたいことをぱっと書いて、ぱっと出す。副作用として、速報性という道具的価値が伴っていた。
トラックバックもブログに重要な内在的価値を与えていたような気がします。ブログという孤島と孤島をつなげて、サイト流入を増やすという道具的価値だけではなく、自分と同じ「何か」を共有することの喜びのようなものがあったように思う。それもまた最終的にはスパムが大量すぎるようになったり、代替サービスが増えてきて、サイト流入という道具的価値が失われていき、衰退していったわけですけど。
他にもSEO効果とか、まあ何やかやとブログには道具的価値が備わっていた。そしてそれをビジネスとして、仕事の中で活用することで、道具的価値がさらに強調されていく。そしてそのうち、ブログは、道具的価値だけが、注目されるようになっていたような、気がする。そしてそれらの道具的価値は、より道具的価値を持つ代替サービスに移動していった。イノベーションのジレンマ。
でもたぶん、ブログを書くということは、ブログじゃなくても良いですけど、「発信する」ことそのものにある「喜び」こそが重要なのだと思う。tumblrとかfacebook、twitterでもできるしコミュニケーションをするのなら、そっちの方が良い。でも、ブログという孤島が、自己を形作り、書き捨てることのない発信が、まとまった文章を書くという、苦痛に近い行為に、喜びがあるのではないだろうか。ないかもしれないけど。
走るのと同じように、万人がみんな走る必要はない。健康のためとか、きっかけが道具的価値でも良い(その意味でコミュニティの広がりには道具的価値があった方がいい)。内在的価値は外側からは気づくのは難しいし、やってみてもすぐに気がつかないかもしれない。でも、ブログにある内在的価値に、うまいこと出会って、うまいことハマることがあれば、たぶん、その人は生涯を通してブログを書き続けるんだろうと思う。
本年中はお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。