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本:全貌ウィキリークス

全貌ウィキリークス ウィキリークスと協力関係にあるシュピーゲル誌(ドイツのニュース週刊誌)の記者/編集部によって書かれたウィキリークスについての本です(同じくウィキリークスと協力関係にあるガーディアン編集部で書かれた「ウィキリークス アサンジの戦争」という本も出版されています)。ウィキリークスと協力的な関係にある点から、ウィキリークスに対して肯定的な立場をとっていると見て読むのが良いとは思いますが、個人的には十分に客観的で批判的な視点でウィキリークスが描かれているかなと思いました。

本書は、ウィキリークスの創設者の一人であり中心的人物であるジュリアン・アサンジの生い立ちから現在のウィキリークスまで時系列で描かれています。もろもろの事情により、母親とともに各地を転々としながら生活していたアサンジは、学校も転々としつつ、家では母親が家庭教師となり反権威主義的な思想に教えられていたらしいです。それがアサンジの現在の反権威主義的な感性と、「カウチサーフィング(友人やソーシャルネットワーク上の知人の家を転々としながら世界を動き回る)」のような行動のスタイルの源となっている。

ウィキリークス創立初期に公開された情報は内部告発によるものよりも、インターネット上から(違法/合法問わず)発掘してきた情報であったみたいです。内部告発サイトというよりは暴露サイトというか、なんというかウィキリークスの原点に「ハッカー」の気質を伺えます。そのハッカーの気質、政治的な思想がなく無差別的なところが、資金繰りでは苦労させていたみたいです。

「コラテラル・マーダー」の動画流出前後から、ウィキリークスの影響力が大きくなってくる。送られてくる情報量も増え、ウィキリークスはそれが本当の情報かを判別しなければならないという作業の負荷が一つの課題として浮上してきます。ウィキリークスは、偽の情報に踊らされ、信憑性を損なってしまう危険がある。コラテラル・マーダーでは得られた情報を裏付けを行ったりなども行っています。

また、コラテラル・マーダーの動画では動画の編集作業も行っています。編集作業をすることで、冗長な箇所を省き、より分かりやすく衝撃的な映像になる。しかし、「編集」という作業には恣意性が多少あり、ウィキリークスが得られた情報に対して意味付けをしていることになる。だからこそウィキリークスは加工されていない1次情報をそのまま掲載することにこだわる必要があるわけで、このあたり、情報を伝えることの難しさを感じました。結局のところ、誰も注目しない情報に意味があるのかというわけで。ノーカット版の動画も公開されているようですが、よく見られているのはやはり編集版の方らしいです。

「コラテラル・マーダー」のあとにアメリカの公電のリークが続きますが、公開された情報によって生命に危険が及ぶ人間がいるかもしれないというところが問題として浮上してきます。ウィキリークストしても危険な情報をそのまま公開することは、(アサンジの暗殺なども含めて)存続を危うくしかねない。そこで、ウィキリークスはシュピーゲルやガーディアン、ニューヨークタイムズなどと協力関係を結び、情報をすべてリークするのではなく、各社と協力しつつリークの量をコントロールしています。

アメリカ公電のリークその後は、アメリカ政府からの反撃を受け、ウィキリークスが窮地に立たされていく様が記述されています。スウェーデンで起きたアサンジのレイプ疑惑についても触れられています。このへん真相は正直よくわかりませんが、逮捕が必要かどうかの判断が、超法規的というか、国家的判断にゆだねられていると感じました。

そして最後にウィキリークスが悪か善かという話に及びます。たとえば彼らの情報源は内部告発も含め、国家機密であり、違法に取得したものといえなくもない。そうした情報を彼らが自分の意思に任せて流出させることへの不安感などもある。一方で、国家はインテリジェンス機関を利用しながら、合法違法問わず情報を収集している。何でもありという意味で情報の取得方法はウィキリークスとあまり変わらない。

重要なのは情報の手綱を誰が握るかという点であり、国家だと安心で、ウィキリークスでは不安というのが実感であるものの、それが正しい感覚なのかどうかというところ(ウィキリークスはウィキリークスで彼ら自身のために公開と非公開のバランスをとろうとしている)。実際には、国家が情報の手綱を握り続けるのも良い状態とは言えず、メディアなり何かが国家が都合の悪い情報を隠していないかなど、国家の不正をチェックする役割を持つ必要がある。そうした意味を含めて、国家が隠してしまうような情報を公開できる方法として、ウィキリークスの存在意義は確かにあるような気がします。