「文字を読む」というのは、「ものを見る」ことや「音を聞く」のような、生来備わっている能力ではない。人は読書をどのように習得するのか、脳内ではどのように認識するのか、というような内容を「文字の発明の歴史」「子供が文字をどのように学ぶのか」「読字障害者(ディスレクシア)の研究」という3つのアプローチで紹介しています。
個人的に関心をひいたのは、読む言語によって脳の使われ方異なるということについて。脳の活動から考えた読字とは、文字を見て、その文字がどのように発音するか、何を意味するかを解読するという、いくつかの認知プロセスの合わせ技であるという。表音文字である英語を読むときはより「音韻」よりの脳の回路が活発になり、表意文字である中国語を読むときは、より文字の認識(空間分析能力とか)を司る回路が活発になる。日本語は漢字を読むときは中国語よりに、ひらがなやカタカナを読むときは英語よりになるそうです。読字障害があった場合にでてくる症状も言語のによって異なる。
もう一つ関心を覚えたのは、インターネットの普及による読書能力の衰退の懸念について。ソクラテスが、口伝のように反芻を必要としないため、文字は理解しはじめの段階で分かった気になってしまうと警鐘したのと同じように、インターネットによって膨大な量の情報をすばやく処理することにのみとらわれ、一つのテーマに対する多角的な分析や熟考をする能力が損なわれてしまうのではないか、うまく両立して読書のすばらしい特性を失われないようにしようという話。たしかに、情報量全体の中で、熟慮された内容の割合が少なくなっているところはあるとは思いますが、効率的な情報の収集と深い理解と、以前とは違う新しいバランスの中でうまくやっていけるのではないかなと、個人的には思います。
最後に個人的に気に入った箇所を下記に記載。何か答えを期待して本を読んでも、そこには答えがないというガッカリ感。本の主題(期待した答え)とは離れたところで、アイデアを創発されていく高揚感。そのバランスが、読書の醍醐味なのかなと思いました。
私たちは、自分の英知は著者が筆を置いた時から始まるのだと心底感じて、著者が答えを与えてくれればと願うのだが、著者が与えてくれることができるのはその願望だけである。(プルーストの一節より)
・・・(中略)・・・
読書の目標は、著者の意図するところを超えて、次第に自律性を持ち、変化し、最終的には書かれた文章と無関係な思考に到達することにあるのだ。・・・(中略)・・・読字は、体験すること事態が目的なのではなく、むしろ、ものの考え方を変え、文字通りにも比喩的にも脳を変化させる最良の媒体なのである。(p36)