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2010年6月21日
本:若者と社会変容 リスク社会を生きる
現代社会の著しい変容が若者に与えている影響について論述した本。本書では、現代社会の生活と人生は「認識論的誤謬」が根底にあると述べています。現代は新しい時代の登場であり、いままでの集団や階級などの社会的な構造が人生に大きな影響力を持たなくなりつつあり、個人が中心の社会となってきていると言えるのか。本書では社会構造が人生の機会に与える影響力は変わらず存在しているとしています。
選択肢の多様化などが表面的には個人の選択の自由、平等化をもたらしているようにみえるが、実際には親の収入などによって階層化しており、階層によって選べる選択肢(機会)には制限がある。しかし、表面的な平等化が、自分の人生を決めるのは自分である、選択するのは自分であるとし、人生を決める責任・リスクは個人にあるという認識を生んでいる。その主観的な認識と客観的に存在する階層構造(不平等)が、認識論的誤謬となっている。本書ではこうした論を教育から労働市場への参入、余暇、健康への影響、犯罪への関与、政治への参加などの視点から詳述しています。
(本書は全体で275ページほどで、文章量としては普通ですが内容にとにかく厚みがあります。より詳細の解説については本書の訳者解説を参考にされるのがよろしいと思います)
言い換えれば、弧度近代の人生生活においては、認識論的誤謬がくりかえされている。この認識論的誤謬の内側で、長期的な歴史的プロセスの一部をなす、集団性から次第に隔絶されていく感覚が、リスクと不安という主観的認識と強く結びついて存在する。個々人は、日々の生活のあらゆる場面でぶつかる一連のリスクを乗り越えていくことを強いられる。しかしながら、個人主義の強まりによって、危機は個人のコントロールを超えて起こるプロセスの結果としてよりも、個人の欠陥として認識される状況が生まれる。(p275)
2010年6月 7日
本:世界の多様性 家族構造と近代性
エマニュエル・ドットが1983年に著した「第三世界」と1984年に著した「世界の幼少期」を二つ合わせたのがこの本。「第三世界」では「世界にある多様なイデオロギーの基底にあるのは家族構造」と論じ、家族構造とイデオロギーは対になっていると主張しています。「世界の幼少期」では教育における女性の権威の重要性を述べ、女性の権威を受け入れる家族構造は文化的成長が速いと論じています(ただし文化的成長は地理的な伝播の影響を受けるので、それも考慮する必要がある)。
論の中心である家族構造については、「両親と子供の関係」「兄弟間の関係」「近親相姦の禁止」という3つの軸によって分析でき、3つの軸の組み合わせによって7つの類型が存在すると述べています。3つの軸にはそれぞれ2つの極があり、「両親と子供の関係」では子供が結婚後も両親と生計を共にし、親との縦型の関係を維持するのであれば家族は権威的であり、逆に子供が結婚後に親と生計を別にするようであれば、親の権威を影響を受けにくい、自由(主義)的であるとしています。「兄弟間の関係」では遺産相続の仕方によって兄弟との関係が平等的か不平等的かを分け、「近親相姦の禁止」の強弱で家族構造が「内婚的(親戚同士のつながりが強くなる)」か「外婚的(親戚ではない外部の人間を家族に受け入れる)」に分けています。この分類によると、日本は権威主義的(不平等)家族に属します(韓国やドイツと同じ分類)。
「世界にある多様なイデオロギーの基底にあるのは家族構造」という考え方がどれだけ強固に作用するのか、本書によると少なくともマクロ的なレベル、家族構造と国の政治体制(イデオロギー)は対の関係にある(家族構造が権威主義的であれば、政治体制も権威主義的になる)としています。しかし、個人のイデオロギーが家族(家庭)ではなく、個人そのものを底とするようになってくれば、この対の関係も薄まってくるのかもしれません。また、本書では家族の構造は不変(何世紀というスパンでは家族構造は変化していない)のように扱われていますが、今後の社会でも同様であるかは分からないところではあります。そういった留意点を踏まえつつも家族における自分の役割や自分の扱われ方、影響力が、自分のアイデンティティやイデオロギーの根底にあるというのは、直観的にも説得力があり賛同できるものであると思います。
2010年4月12日
本:facebook
facebookの創成期から現在に至るまでの物語。一人の若者が作成したサイトが爆発的な人気を得て、とりまく状況が劇的に変わっていく。facebookへの期待感や焦燥感、様々な人の思惑が話を複雑にしていきます。そして現在のfacebookにつながっていく。それが本書の最大の魅力です。物語に登場するマーク、ショーンパーカー、エドゥアルドは、いまどういう生活をしているのか、二人の関係はどうなったのか、物語中に触れられた問題は解決したのか・・読了後にも続きが気になる内容になっています。なお、物語がエドゥアルドの心理描写が中心に進むというのもあって、若干エドゥアルドびいきなところはあるような気がします。
原著のタイトルは「The accidental billionaire」。facebookがここまで爆発的に広がらなければ、いろいろと結果が変わっているのかなあと思うとこのタイトルにもなんとなく深みを感じます。前書きによると映画化も進行中らしいです。
2010年3月29日
本:subject to change
「予告なく変更される(subject to change)」世界をいかに受け入れ製品開発していくべきか。本書では製品をどのようにデザインするか、どうしてデザインという行為を企業の中核に据えるべきかを論じ、変化の早い世界で柔軟で機敏な製品開発を実現する手法としてアジャイル開発の手法を紹介しています。
その中でもユーザーの「体験(experience)」をいかに理解してデザインするかというのに多くの紙面を割いています。ユーザーにとって製品の価値とは、その製品の背景にある技術的要素ではなく、何を「体験」したか(何を「体験」するか)による。「体験」とは人それぞれであり、その人の動機、期待、知覚、能力、流れ(時間)など感情や文化的背景に左右される。ユーザーの「体験」を理解するにはユーザーを「ヒツジ」のように誘われるだけの存在ではなく、感情・文化・文脈などいくつもの諸要因によって行動する複雑な「人間」として捉える必要がある。
そしてユーザーの「体験」とはユーザーがその製品を使って何を成し遂げたか、その始まりから終わりまでの一連の流れ/枠組み(システム)を通して得られる。フィルムカメラで言えば、カメラを使って写真を撮るまでではなく、フィルムを現像して写真にプリントするまでのフローが「体験」を形作る。すなわち「体験」をデザインするには、製品だけに注目してデザインするのではなく、システム全体を考慮してデザインするのが肝要であると説いています。
2010年2月22日
本:季語の誕生
書名の通り「季語」の始まりについて論考した本。俳句における季節感(季語)は歳時記(季語をまとめて四季別に分類したもの)を絶対視しすぎているのではないかという疑問から始まり、代表的な季語「雪」「花」「月」の三つについて、その言葉にある含意を文化的背景や宗教的背景を踏まえながら、季語がどのように成立したのかのルーツを辿ります。特に「月」については、年中見ることのできる月がどうして秋という季節に限定されるようになったかなど、紙面を割いて説明しています。
季語を再考する上でのキーワードとしては「地貌(ちぼう)」というものをあげています。地貌とは「風土の上に展開される季節の推移やそれに基づく生活や文化まで包含することば(p.v)」としており、貴族文化として発展した俳句の世界にある「京都中心、畿内中心」のものの見方とは異なる考え方。「地に足をつけた俳句」と言えるのでないかと思います。本書ではその代表として松尾芭蕉の俳句を多く取り上げています。
季語について個人的に俳句に興味があったわけではなく、季節をテーマにして写真を撮ろうとしたときに「季節」をどう捉えたら良いのかという疑問から手にした本でしたが、思いのほか俳句の世界の奥深さに触れることができて面白かったです。特に松尾芭蕉の俳句の「本歌どり(既存の歌を踏まえて作成された歌)」についての解説が印象深く、既存の歌にある背景を積み重ねていくことで五七五という短い文に相当に深い意味を持たせることができるのだなと思いました。著者の宮坂さんの文章もとても読みやすく、文章の書き方としても参考になる本です。
2010年2月12日
本:延長された表現型
「利己的な遺伝子」の著者、リチャード・ドーキンスの本。「延長された表現型(extended phenotype)」というのは遺伝子による生物個体への発現(表現型)を生物個体によってもたらされる形成物(たとえばクモにクモの巣、ビーバーによるダム)にまで延長(拡張)した概念。本書では最終的に「寄生体による寄主」に対する表現型効果や、「母による子」への表現型効果(遠隔作用)にまで広げていきます。
内容は「読者が進化生物学とその学術用語についての専門的知識をもっていることを前提にしている(p5)」と前置きしているだけあって、専門用語が多くて難解・・。読み終わった後に気がついたのですが巻末に用語説明がついているので参照しながら読むと良いかもしれません。私はまあ頑張って「見物人としてある専門書を楽しむ(p5)」程度には楽しめたのではないかなと思います。
細かい内容は理解できていないので触れずに、個人的に関心のあった遺伝的効果と「環境」による効果について、ちょい長めに引用をしておこうと思います。条件によって発現(発生)する表現型効果は異なるので、その根本が遺伝子によるものであるとしても、人間のすべてが生まれながらにして遺伝子によって決まっている(遺伝的決定論)わけではないという話。
遺伝的原因と環境的原因は原理的には互いに差はない。どちらの原因からくるのであれ、その影響には逆転しがたいものもあれば、容易に逆転するのもあろう。またある影響は通常は逆転しがたいにしても、適正な作用因子を与えられれば容易に逆転しよう。重要な点は、遺伝的影響が環境的影響以上に不可逆的であると期待する一般的な理由は存在しないということである。(p38)
・・・突然変異を除けば、何事も私が私の子供のすべてにGを受け渡すのを妨げることはできない。それはそれほどにも動かしがたいことである。しかしながら、私であれ私の子供であれ、通常はGをもっていることと関連しているその表現型効果を示すかどうかは、われわれがどのように育っているか、どのような食事どのような教育を経験しているか、また他にどのような遺伝子をもっているかに著しく左右されるだろう。(p40)
ベイトンソンは、私が行動の遺伝的決定因に「特別な地位」を与えているようにみえると心配してくれている。生物体がだれの利益のためにはたらくかというその実体として、遺伝子をあべこべに強調することが、発生過程の環境決定諸因に反対するものとして遺伝の重要性をはなはだしく強調することになるのを彼は恐れている。これに対する回答は、われわれが発生について語るのなら、遺伝的要因と同時に非遺伝的要因を強調するのが適切だということである。しかしながら、淘汰の単位について語るのなら、それとは違った強調、つまり自己複製子の諸性質というものの強調が要求されるのではないだろうか。(p193)
2010年1月29日
本:イノベーションへの解
「イノベーションのジレンマ」とは、利益を最大化させるための論理的な意思決定が、逆に新興企業による市場の破壊を許してしまうというジレンマ。そのジレンマを機会として捉え、市場の破壊者としてどのように事業を構築していけば良いのか、ということを考察したのが本著です。全体は350ページほどで、イノベーションのジレンマについての理論的枠組みから始まり、市場の分析について、ターゲットとする顧客について、開発の手法について、コモディティ化(低利益化)への対応、組織、戦略、資金などについてを詳説していきます。後半のマネジメント的な話は個人的にあまり関心をそそられませんでしたが、前半部分はかなり面白かったです。
個人的に注目したのは、製品開発において顧客の置かれている「状況」に注目して、顧客が行いたい「用事」を満たすことが大事という話。ユーザーを年齢などの「属性」で市場を細分化してしまうと、顧客の用事を正しく捉えることができずに帯に短したすきに長しで機能だけは豊富の「万能型」な製品になってしまう。本書の優れているところは、こうした一つ一つの話がわかりやすい上に、製品開発のジレンマ・核心を突いているところなのかなと思います。
2009年12月31日
本:明るい部屋
写真が本質的に有する被写体という対象から離して、「写真」という事象そのものをどのように語ることができるかを出発点に、写真とは何かを考察した本。
本書では写真を見たときに感じる情感を「ストゥディウム(一般的関心)」と「プンクトゥム(胸に刺さる何か)」の二つに分け、つかみ所がないプンクトゥムという事象について「自分の胸に突き刺さる」写真を題材に、なぜ突き刺さるのかを手探りで辿っていきます。
本の後半は亡き母の過去を辿る話を元に、過去の写真に存在する「それはかつてあった」という驚きについて話をします。この時間のギャップにある「刺さる」感覚は、一つの別のプンクトゥムであるとして、「それはかつてあった」という事実からとめどなく湧き出てくる情感、その「狂気」こそが写真のエクスタシーであると結論づけています。
結局なんだかよくわからんといった感じではありますが、著者とともに「写真とは何なのだ」と手探りでたぐり寄せていく、そうした感覚に「学び」があるなあと思いました。
2009年12月30日
本:職業としての学問
マックス・ウェーバーの「職業としての学問」を「下流社会」の三浦展さんが現代訳として意訳しています。内容としては、学問することを職業としようと考えている学生に対して、努力をしても職が得られるとは限らないし、才能の多寡によって出世が決まるとも限らない、という職業としての現実を諭していくといったもの。とにかく「安心で確実な未来などなく、答えなどない」という現実感をひたすらつきつけていきます。学問を志すにあたってどのような心構えであるべきかと言えば、ひたむきに取り組んでいくことだろうと述べている。そこから得られる「ひらめき」によって、後世に残るような業績を成し遂げることができると。しかし、だからといってひたむきな人が必ずひらめきを得られるわけではない、努力を重ねてもまったくひらめかない人もいるし、やはり運も必要であると言ってしまう。
そういった先行きの不安感も手伝って、最近の若者は「自分らしさ」と「やりがい」を結びつけて答えを求めてしまいがちだが、むやみにそれを求め、答えを急いではいけない。一生悩み、考えていけというメッセージが根底にあると個人的には思いました。「悩む力」をあわせて読みたい。
2009年12月29日
2009年12月14日
本:FREE 「無料」からお金を生み出す新戦略
「ロングテール」の著者であるクリス・アンダーソンの著書。インターネットの世界に広がっている「フリー(自由/無料)」のサービスについて、どうしてフリーのサービスがうまれるのかについての解説と、フリーのサービスにおけるビジネスモデル、生産者と消費者との間にある取引についての整理分類をしています。
フリーのサービスが生まれる理由として、「アトム(モノ)」と「ビット(情報)」の違いと「潤沢さ」に注目しています。「潤沢さ」というのは、サービスとして提供するモノが「無料にしても気にならない」ほど潤沢に存在することを意味しています。デジタルなデータ(ビット)で構成されているサービスは、有限な物質(アトム)で構成されるモノよりも、複製が容易であり、1つ生産するためのコストが0に近いため、潤沢に用意することができる。
本書では、フリーの経済モデルを、「直接的内部相互補助(無料品を呼び水にして有料品の購入を促す)」「三者間市場(広告主収入)」「フリーミアム(少数の有料ユーザーでまかなう)」「非貨幣市場(贈与経済と無償労働)」という4つに分類しています。「直接的内部相互補助」は、たとえば試供品を配ったり、1個買うと1つタダみたいな従来的なモデル。「三者間市場」はラジオやテレビといったメディアで汎用性のあるモデルで、「フリーミアム」や「非貨幣市場」は「潤沢さ」を前提にしたビット世界ならではのビジネスモデルという感じがします。1ユーザーあたりの限界費用が0に近いからこそ、幾百万の無料ユーザーをかかえることができて、そのうち5%のユーザーが有料であればビジネスとして成り立つ。コストという視点からユーザーを絞り込む必要がなくなっており、それゆえユーザーの規模が巨大で、ごく一部のユーザーが料金を支払ってくれるだけでも十分に採算があう。ロングテールの考え方に近いところを感じます。
個人的に関心を持ったのは「潤沢な情報は無料になりたがる。稀少な情報は高価になりたがる(p130)」という点。「潤沢な情報」とは何か、「希少な情報」とは何か、その違いは何なのかいまいち判らないのですが、潤沢な情報を土台に希少な価値を生む情報を形作る、というのが自分が持っているイメージです。たとえば「私個人が今欲しいと思っている情報」なんかは、情報としての価値が高い。フリーのサービスを成功させるポイントがこのへんにあるのかなと思いました。
全体的にそんなに目新しい発見はないのですが、逆に納得感のある内容となっています。インターネット上に散見する「フリー」という現象を体系的に眺めてみたいときや、新しいサービスのアイデアを練るときに役に立つのではないかと思いました。良書です。
2009年6月21日
本:プルーストとイカ - 読書は脳をどのように変えるのか?
「文字を読む」というのは、「ものを見る」ことや「音を聞く」のような、生来備わっている能力ではない。人は読書をどのように習得するのか、脳内ではどのように認識するのか、というような内容を「文字の発明の歴史」「子供が文字をどのように学ぶのか」「読字障害者(ディスレクシア)の研究」という3つのアプローチで紹介しています。
個人的に関心をひいたのは、読む言語によって脳の使われ方異なるということについて。脳の活動から考えた読字とは、文字を見て、その文字がどのように発音するか、何を意味するかを解読するという、いくつかの認知プロセスの合わせ技であるという。表音文字である英語を読むときはより「音韻」よりの脳の回路が活発になり、表意文字である中国語を読むときは、より文字の認識(空間分析能力とか)を司る回路が活発になる。日本語は漢字を読むときは中国語よりに、ひらがなやカタカナを読むときは英語よりになるそうです。読字障害があった場合にでてくる症状も言語のによって異なる。
もう一つ関心を覚えたのは、インターネットの普及による読書能力の衰退の懸念について。ソクラテスが、口伝のように反芻を必要としないため、文字は理解しはじめの段階で分かった気になってしまうと警鐘したのと同じように、インターネットによって膨大な量の情報をすばやく処理することにのみとらわれ、一つのテーマに対する多角的な分析や熟考をする能力が損なわれてしまうのではないか、うまく両立して読書のすばらしい特性を失われないようにしようという話。たしかに、情報量全体の中で、熟慮された内容の割合が少なくなっているところはあるとは思いますが、効率的な情報の収集と深い理解と、以前とは違う新しいバランスの中でうまくやっていけるのではないかなと、個人的には思います。
最後に個人的に気に入った箇所を下記に記載。何か答えを期待して本を読んでも、そこには答えがないというガッカリ感。本の主題(期待した答え)とは離れたところで、アイデアを創発されていく高揚感。そのバランスが、読書の醍醐味なのかなと思いました。
私たちは、自分の英知は著者が筆を置いた時から始まるのだと心底感じて、著者が答えを与えてくれればと願うのだが、著者が与えてくれることができるのはその願望だけである。(プルーストの一節より)
・・・(中略)・・・
読書の目標は、著者の意図するところを超えて、次第に自律性を持ち、変化し、最終的には書かれた文章と無関係な思考に到達することにあるのだ。・・・(中略)・・・読字は、体験すること事態が目的なのではなく、むしろ、ものの考え方を変え、文字通りにも比喩的にも脳を変化させる最良の媒体なのである。(p36)
2009年5月25日
本:水の未来
水の未来についての本。10章構成で、水の使われ方から、現在の過度の取水状況、水が生み出す自然と災害、水紛争、これからの水との関わり方まで、水に関する話題を多角的に取り上げています。水資源の問題の本質は水そのものが足りなくなっているというよりは、国レベルでの非効率な水資源の使用(主に砂漠での灌漑農業やダムの建設)や、上流側の資源の独占による生態系の変化などにある、という印象を持ちました。
本書の最後の方には、水のユニークな取水方法(ネットのようなもので水滴を集める)や点滴灌漑というような「1滴あたりの収量を上げる」、水を効率的に利用する農業手法などが紹介されています。巻末にある沖さんの解説もすばらしく、本文全体の概要と、砂漠での灌漑農業など、日本では首を傾げてしまうような話について、フォローしてくれています。
個別のトピックとして一つ関心を引いたのは、仮想水(バーチャルウォーター)という考え方です。仮想水とは、たとえば穀物などを輸入した場合に、その穀物を作るために費やした水の量を表します。たとえば、1トンの小麦を輸入したら、1000トンの仮想水を輸入していることになる(p9)。フードマイレージなどと同様に、モノに隠れてしまう資源の消費を視覚化するのに良い指標だなと思いました。
また、「自分たちが自然に取って代わるのではなく、自分たちが「水循環に加わる」ことを学ばなければならない」という言葉に感銘を受けました。たとえば雨水が地表に浸透し、それが地下水となる。地面がアスファルトになると、雨水は排水路などを通り、地表に浸透することなく海に流れ出てしまう。アスファルトは都市生活には必要である一方で、水資源の確保という意味で効率が悪い。河川の氾濫・洪水は、住居に被害をもたらす反面、大地を肥沃にする。湿地帯は使い道の少ないように見えて、水の貯水という意味でも意義があるし、多様な生命を育む。ダムは取水には便利かもしれないけれど、蒸発して失われる水も多い。自然の仕組みには一長一短があり、人の生活には不向きな面もありますが、人口の建築物よりもうまく水を循環できる。水資源を効率的に確保・利用するために、都市文化と水循環の融和というのは、とても大事な考え方だなと思いました。
2008年8月12日
セレンディピティと仮説立案
今現在「セレンディピティの探求」という本を読んでいます。最初の方はセレンディピティの意味論的なところをあつかっていて、個人的にはあまり関心がそそらなかったのですが、今読んでいる「仮説立案」という章はなかなか面白いです。
本書では、セレンティピティを創出するまでの流れを「偶然」→「感動」→「察知」→「課題の認識」→「連想」→「発見」→「創造」という流れで紹介しています。セレディピティを活用するためには、「偶然」からの「察知」が「創造」まで到達できるように、意識を向けることが肝要。
「仮説立案」というのは、偶然をきっかけに気がついた事柄を「事象(仮説)」としてまとめるための、意図的な行動として紹介されています。仮説を書き留めることによって、記憶にとどめ、課題を意識させ、セレディピティの創出へとつなげていく。言い換えれば、この「仮説立案」という考え方は、プラスマイナスゼロの地点から、仮説(実はこうした方が効果があがるのではないかなど)を立て、プラスを増やしていく試みではないかと思います。よくある問題解決のための仮説思考というのと、問題を前提としないという意味で、思考の出発点が異なる。
与えられた課題に対処するのではなく、自らで課題をつくり改善していく。個人的にはこの「仮説立案」的なアプローチに非常に好感を感じました。
個人のブログは、つまるところ個人が得た「気づき」から「仮説」を立案する場である(もしくはセレンディピティを創出するための意図的な表明である)と、そんな仮説を掲げて、今回は読了前の本の感想を書いてみました。今後続きを読むことで、違う感覚を得るかもしれません。だから、また続きを書きたくなったら、書こうかなと思います。はい。
2008年6月 5日
本:第三の脳
皮膚の研究をしている著者が、皮膚についての考察をまとめた本です。六章構成で、最初の二章は皮膚の構造や機能について書かれており、残りの四章は皮膚に関する考察・仮説などが書かれております。文体が語り口調というのと、文中に著者の体験談が比較的多く含まれているのとで、全体的にエッセイ的な雰囲気がそこはかとなくあります。220ページ。斜め読みでさらっと読めます。「第三の脳」というふれこみは、刺激をどんな刺激かを判断して対処する組織を「考える臓器」たる脳の主要な機能とするならば、消化器はいわば「第二の脳」であるという説からきています。皮膚にも自律的な仕組みが組み込まれている、だからいわば「第三の脳」と言えるのではないか、みたいな感じ。
個人的に関心を引いたのは、本の帯にもある触覚の錯覚についての話でした。平坦な箇所よりも際立った箇所に感覚が集中する、ゆえに同じ高さの箇所でも、でこぼこしているところの方が際立って感じ、異なる高さに感じる。人の感覚をあらためて考えると、非常に効率的にできているというか、不思議だなあと思いました。
2008年5月29日
本:海ゴミ
海岸に届く、大量の漂着ゴミの問題について書かれている本です。本の内容は、問題となっている地域の事例紹介から始まり、漂着ゴミの発生源と内訳、漂着ゴミによる環境への影響、法律・制度、今後の対策・提言で終わります。漂着ゴミは捨てても捨てても海からゴミがやってくるというのがやっかいなところです。漂着したゴミを片付けるだけでは解決しない。海がゴミに流れ出ないように、法の整備が求められています。
個人的に関心を持ったのは、「ポイ捨てしたゴミが回り回って海に出て行っている」ということです。たとえば道の側溝にすてたタバコの吸い殻は、川をくだって、海に到達します。タバコの吸い殻は漂着ゴミの中の11%を占めるそうです。
こういった問題を解消するための個人的なアクションとして、自分の生活行動が、まわりまわって環境にどう影響を与えているのかに関心を持つことが大事だなと思った次第です。
2008年5月28日
本:赤を見る
2004年春にハーバード大学で行われた著者の講演内容をまとめた本。「赤を見る」という行為を因数分解して、「感覚」とは何か、「知覚」とは何か、そして「意識」とは何かにまで踏み込みこんでいきます。150ページくらいの分量なのですが、内容が難解で・・ページを行ったり来たり、途中で挫折しつつ読み進めたので、読了するのに時間がかかりました。
前半の話は「赤い感覚を経験している」という行為(レッディング)を中心に進みます。赤いスクリーンは物理的には存在していて、その特徴も伝えることはできるのですが、人が赤を見たときに意識に上ってくる、赤いという感覚は物理的には存在しない。この感覚が何であるかを、説明することは非常に難しい。本書の中では、「何でも見える盲目の猿(感覚はあるが、知覚できない)」の実験を通して、感覚と知覚が別々に機能していることを説明し、進化論的なアプローチで、感覚とは外部への反応が埋没し、脳内の内部ループとなった「行為」であると論じています。
後半は、ファクターX(通常の感覚経験を現象的に豊かな意識ある感覚経験の領域まで高める付加的な特性(p47))について、意識的な「瞬間(一瞬の時間の幅)」と、その間に起る感覚の内部ループを手がかりに話を進めていきます。
前半を辛抱強く理解していければ、後半の話は感銘を覚えると思います。おすすめの良書です。
2008年1月28日
本:もっとわがままになれ!
「わがまま」とは、yahoo辞書で調べると、「自分の思いどおりに振る舞うこと。また、そのさま。気まま。ほしいまま。自分勝手。「―を通す」「―な人」」という意味ですが、本書における「わがまま」とは、どちらかというと「日和見主義にならずに、自分が正しいと思うことや、やりたいと思うこと実践するために、アクションを起こすこと」という感じの意味。おかしな常識を疑うことや、創意工夫を奨励するための言葉としても、本書では「わがまま」という言葉を使って表現しています。
本書は6章構成。第一章が「わがまま」とは何か、という感じの話。第二章は「わがまま」の意味をはき違えないように、という感じの話。第三章は個人のキャリア・プランと「わがまま」について。第四章は会社経営と「わがまま」について。第五章は一般社会と「わがまま」について。第六章は、その他の「わがまま」に関するエピソードと言った感じ。150ページほどで1ページあたりの文字数が少ないので、1時間程度で読めます。
個人的に関心がそそられたのはp19の「わがままの裏には、やはりわがままの「正当な理由」があるべきだ」という格言。その背景のエピソードは、大蔵省の道理のあわない非効率的な慣例に疑問をもって、わがままをもって、道理に沿った前例のないことをやってのけるというような話。「西南戦争」の中で、福沢諭吉が西郷隆盛の「抵抗する精神」を讃えたという話(p201)が紹介されていますが、その話に通じるものを感じました。国家の行いであろうと、疑問のあるなら、臆さずに抵抗する(わがままをいう)。それが社会を変えていく源になっていく。これは「胆力」にも通じるところがあるように思います。
2008年1月23日
本:効率が10倍アップする新・知的生産術--自分をグーグル化する方法
生産性を上げるための方法を著者の経験をもとにまとめた本。「自分をグーグル化する」という意味は、情報を武器に生産性を上げるといった感じです。全体が280ページほどですが、ざっと3時間ほどで読みました。要点箇所は太字になっているので、流し読みはしやすいです。どうも売れに売れているようで、わたしの持っている本は第七刷でした。発売一ヶ月で七刷まで出てるのはけっこうすごいと思います、たぶん。
本書は6章構成で、情報の活用がいかに重要かという話から、IT系ライフハック、情報を見極める技術、インプットとアウトプットについて、そして生活管理といったような流れで話がまとめられています。所感としては、ライフハックに始まり、ライフハックに終わるという感じの内容。幼少のころからIT機器に関心があったようで、おそらく、そもそもIT機器とか生活を便利にする機械を利用するのが好きな人なのではないのかなと憶測しています。とにかく徹底した使いっぷり。
「誰でも再現できるということをめざして(p3)」書かれているだけあって、思い立てば誰でもできそうな内容でした。とはいえ、それを実践するかしないかは、その人それぞれの仕事や生活にうまくフィットするものだけを取り入れれば良いのかなあと思います。個人的にはp70あたりの「フレームワーク力」というのに共感を覚えました。
2008年1月14日
本:外国語上達法
1986年刊行。名前の通り、外国語の勉強方法について書かれている本です。英語だけではなく、外国語全般についての勉強法として述べられているところが、ほかの英語学習関連の本と趣きが異なります。200ページほどを、半日くらいでざっと読んでいます(ほんとにざっと)。
本書では、外国語を習得する上で、覚えなければならないものは「語彙」と「文法」で、それを習得するために大事なのは「教科書」「先生」「辞書」としています。そのうえで、どんな教科書がよいか、良い先生とはどんな先生か、よい辞書とはなにか、というのが本書の中心的なテーマです。なので、具体的な方法論というよりは、より基本的な勉強法についてが中心。
個人的に感銘を受けたのは、自分が何のために英語を習得するのかを考え、どこまでできていれば十分かを考えて目標を立てようというところです。たとえば、スチュワーデスであれば、自分たちの業務に関わる内容について英語を習得していればよく、全方位的に英語に通じている必要はないとか。広く深く習得しようとすれば、そのための期間も長く必要。だから習得したいレベルを決めて、必要以上の努力はしない。当たり前と言えば当たり前なのですが、勉強しているとつい欲が出てしまう。だからたぶん始めにこうしたことを考えて計画するのが肝要なのだろうなあと思いました。

